消費者と企業の利益は両立可能!共に笑う共存戦略の鍵、行動経済学とは。

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サブスクサービスを利用するとき、契約は数クリックで完了するほど簡単なのに、解約時は手続きが非常に複雑で難しいといらだちを感じたことはないだろうか?

近年、配信動画コンテンツやオンライン業務支援アプリ、ライドシェアなどの、月額利用料固定サービスを利用する人が増えているが、気が付けば、全く使っていないサービス契約を何ヶ月も継続していたという人は少なくないだろう。インターネットや携帯電話の契約における2年縛りプランも同様だ。2年後に自分で解約、もしくはプラン変更するのを忘れてしまいうっかり割高な料金で自動更新され、悔しい思いをさせられる。

消費者のうち少なくとも一部は「ナイーブ」、つまり「契約後の将来の結果を正確に予測できていない」。

大阪大学国際公共政策研究科の室岡健志准教授は、そのような消費者と企業、あるいは個人と社会の関係のあり方を研究し、政策提言にまでつなげている行動経済学の第一人者である。

世界は今、個人、企業、社会の皆にとって、より良いビジネスや社会の、新たなカタチを模索している。
我々はそれをどのように実現していけるのか?
その有効な手がかりを室岡准教授に伺った

室岡健志 准教授

人の「心理」に焦点があたり、注目される行動経済学という分野。

 マーケティングに経済学を応用することは、近年ますます大きなトピックとして扱われている。どうすればバズるか?どのようにすれば大きなインプレッションを出せるか?といった手法に関する話題は次から次へと現れている。消費者が商品やサービスを購入する際に取る行動は、環境的要因や、心理的要因が影響する。近年はさらにSNSやオンラインサービスの隆盛により、購買行動はますます複雑化する傾向にある。その流れから、ビジネスにおいて従来の伝統的な経済学に加えて「行動経済学」と呼ばれる研究分野が注目を集めている。

行動経済学ってそもそも何?

 「経済学」と聞けばどんなものか漠然と思い浮かべられる人は多いと思うが、「行動経済学」ではどうだろう?イメージをつかむためには、まず、伝統的な経済学と行動経済学とではどのような違いがあるのかを理解する必要がある。「伝統的な経済学」では「人は合理的な行動をする」という前提のもと理論が展開されるが、現実の世界の人間は常に合理的に行動するとは限らない。人は間違えたり、忘れたり、感情に支配されたりして行動をすることがある。例えば、ダイエットすると誓った人が、言ったそばから誘惑に負けて「やっぱり明日から…」とケーキを食べてしまう。「行動経済学」では、このような人の心や行動の癖を理論の前提として組み入れる点に、伝統的な経済学との違いがある。
 室岡准教授は「近年は、人びとの行動を変える仕組みや知見を活用した事例、すなわち “ナッジ”と呼ばれる手法が行動経済学と呼ばれる傾向にありますが、ナッジの類だけを『行動経済学』と呼ぶのは誤りです」と指摘する。ナッジとは選択の制限や金銭のインセンティブなしに、人の行動を予測可能な範囲で変える仕組みのことだ。身近な事例として、男子トイレの便器にハエのシールを貼り、的のように誘導することで床汚れを軽減したナッジがある。コンビニやスーパーで並ぶ位置に足形を貼り、自然とその位置に整列するよう誘導するものもナッジの例である。室岡准教授が「誤りだ」と指摘する理由は、「行動経済学は人の心や行動の癖を伝統的な経済理論に組み入れた分野」のため、必ずしも行動変容のみを目的とする分野ではなく、消費者の利益、社会全体の利益、そしてそれらに基づいた政策評価を行う分野でもあるからだ。

行動経済学は、従来の経済学と補完しつつ有用性を増す

 では、合理的な行動を前提とした従来の経済学は現実的では無いのだろうか?人の心理を組み入れた行動経済学のみが有用なのだろうか?否、室岡准教授は次のように語る「そうではありません、伝統的な経済学が重要なことにかわりはありません。伝統的な経済学は、人間のクセや不注意などが無い場合の理論的予測を提供します。100%見落としせず、先延ばしもせず、忘れもしない消費者を前提とした場合と、人の心理を組み入れた場合をそれぞれ分析し、その両方を比べることではじめて、より良い状況をつくるために有効な打ち手が見えてくるのです。」つまり、従来の経済学と行動経済学を、補完し合いながら上手く活用することで、社会における有用性はより高まると言える。

行動経済学が開く、新たなビジネスの可能性

 有用性の高まる行動経済学をマーケティングや顧客との関係構築に採り入れ、新たなビジネスの創出に取り組む企業が増えている。
 例えば、保険会社の住友生命が提供する保険商品「Vitality」は、従来のように「リスクに備える」だけでなく、契約者の「健康増進」を応援し、「リスクを減らす」新しいコンセプトの保険である。具体的には、健康診断受診やフィットネス通い等を特典ポイント化し、可視化することで契約者の健康増進を図るサービスを付加している。保険会社は、被保険者が病気になると保険金を払う必要があるため、被保険者が健康で暮らせるよう健康をサポートするためのサービスを提供する。そのことで被保険者は病を“予防をする”ことができ健康維持につながる。このように企業と個人がともに幸せになるビジネスの仕組みを構築している。
 もう一例、わかりやすいのは製薬会社の支援により米国スタートアップ企業が開発した「飲み忘れ防止アラームが鳴る薬箱」の事例だ。消費者は往々にして薬を用法通りに飲まない。生活のなかでうっかり飲み忘れ、薬を余らせてしまう。これによって、消費者は薬の効果を十分に享受できず、また製薬会社は本来想定される売り上げを得られない、という双方に不利益が発生してきた。そこで、服薬の時間になるとアラーム音を鳴らし服用を知らせる薬箱を消費者に提供することにした。これによって、消費者はアラームで薬を用法通り飲むようになり健康を手にいれる。製薬企業はこれまで飲み忘れによってロスしていた分の売り上げが増えて、お互いに幸せになる仕組みである。

行動経済学を活用すると悪用するケースも出てくるのでは?

 このように新たなビジネスチャンスが生まれている一方で、行動経済学を悪用し、個人にとって不利益な行動へと誘導することも容易にできてしまうのではないか、という懸念もあるだろう。室岡准教授の見解はこうだ。「確かにそれは可能です。悪意のある広告やダークパターンは対応しないと被害が広がるため、行動経済学を応用し、個人の利益を不当に奪う悪意から消費者を守ることが重要です。」ダークパターンの典型的な例としては、1、2クリックで簡単に契約できるが、解約には難解で複雑な手続きが必要なサービスなどが挙げられる。
 行動経済学を応用して消費者を守る。その事例のひとつが2018年の携帯契約2年縛りにおける契約の自動延長時のプッシュ型通知(リマインダー)だ。契約延長に不注意になっている消費者に対し、Emailや電話のショートメッセージでお知らせを送るというものだ。室岡准教授は、消費者契約法の改正に向けた研究会委員や、ステルスマーケティングに関する検討会の資料作成などに関わり、消費者保護のためにどのような視点を持つべきかを提言してきた。このように、ビジネスのみならず、社会をバランスよく回すための政策設計にも行動経済学は活用できるのである。

行動経済学を応用して企業、消費者、社会、“三方よし”を実現することができる

 近年はSDGsがそうであるように、個人、企業、社会、さらには地球環境全体が「ともに」持続可能な社会を目指す傾向にある。企業においても社会的責任(CSR)という概念が共通価値の創造(CSV)へと発展して久しい。環境、食、貧困など様々な課題を解決しつつ、利益をもたらす経営のあり方が当たり前になっている。皆にとってより良いビジネス、仕組みを考え実践できる企業が、他社に先んじて選ばれる時代である。消費者はそのような経営方針を取る企業の商品やサービスを選択する傾向が高く、利己的なだけの企業は資金調達、人材獲得においても不利な評価を受けることになる可能性がある。
 行動経済学の持つ「人々の心理と選択行動」に対する深い洞察は、企業にとっては社会課題解決への寄与と、ビジネスの成功を両立させるための有益なアプローチを提供し、新たなビジネスチャンスを創出する大きな可能性をも秘めている。
 さらに、ビジネスに限らず、より良い社会への進化にも行動経済学の応用は有用である。なぜなら、我々は今、社会の転換期を迎えており、より人間中心の豊かな社会を目指していかなければならないからだ。
 人間の歴史を長期的な視点でみたとき5段階に区分する考え方がある。狩猟採集社会をSociety1.0、農耕社会を2.0、工業社会を3.0、情報社会を4.0とし、次に我々がめざす社会はSociety5.0と呼ばれる。それは、高度な情報社会をベースとして、経済発展と社会的課題の解決を両立する、人間中心の豊かな社会である。デジタルイノベーションによってテクノロジーが進化し、社会の様々なニーズにきめ細かく対応できる社会の実現を見据えたとき、我々の幸福を約束するのは「人が中心」であるという原則である。現実社会の人々の心理を組み入れた行動経済学を上手く活用することで、個人、企業、社会のだれもが公正に幸せを享受できる仕組みをつくることができるのではないだろうか。テクノロジーの暴走によって不当な不利益を生むことなく、誰もが“三方よし”を実践することができるのではないだろうか。
 今、行動経済学を学ぶことは、未来への手がかりを学ぶことに他ならないのだ。

Interviewee: 大阪大学大学院国際公共政策研究科 室岡健志 准教授
Interview / Writing / Photo: Dialogue Staff