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歴史を紐解きつづる「法の履歴書」

近代ドイツを手掛かりにみる私たちの現在地(いま)と未来

高等共創研究院(兼任)法学研究科 教授 的場かおり

「大河」とも称される歴史のダイナミズム。時代を逞しく生きる人々のさまざまな思惑が絡み合い、社会は移ろいながらも形づくられていく。この「歴史のダイナミズム」をツールに「法」の姿を探り、将来を展望する学問分野がある。法制史がそれだ。法律は人びとの営みのなかから生まれ、私たちの文化や歴史を色濃く反映しながら変化する生身の存在ともいえる。高等共創研究院(兼任)法学研究科の的場かおり教授(近代ドイツ憲法史)は日本の法にも影響を与えた19世紀ドイツを対象に、選挙法や表現の自由の歴史を紐解きながら、将来を俯瞰する。「すべての法律は歴史を背負っています。それを探って現在地を知り、将来まで見通す欲張りなところが法制史の醍醐味」と微笑む。

歴史を紐解きつづる「法の履歴書」

法学部でも歴史の勉強ができる!

 歴史好きだった的場教授は、進学した法学部で出会った法制史に強く惹かれた。

 「1年前期の基礎法学概論で聴いた日本や西洋の法の歴史が面白くて、『法学部でも歴史の勉強ができるんだ!』と気付きました。特に2年で取った西洋法制史の授業が転機になりました。当時は、古代・中世を林毅先生が、近世以降を三成賢次先生が教えてくださるというなんとも贅沢な布陣でした。進学先を文学部と迷ったぐらい歴史好きだった私には、法制史の授業は新鮮だったこともあって、めちゃくちゃ頑張ったんです(笑)。そうしたら学期末試験の私の答案をご覧になった林先生から『将来、うちのゼミに来て研究者になる選択肢はありませんか』とわざわざ下宿先まで電話をかけてきてくださったんです。このときの驚きと嬉しさはいまでもよく覚えています(笑)」

 林教授は、娘の大学院進学を心配する両親に宛て手紙まで書いて支援してくれたという。こうして的場教授は、研究者への道に一歩を踏み出した。

考えさせられた「選挙」

 近代ドイツを専門とする三成教授の下で的場教授が最初に取り組んだのは、近代日本がモデルとしたプロイセンの選挙制度だった。「研究テーマを決めた時期は、私自身が選挙権を得たタイミングでもあり、世界的に若者の投票率低下が問題になっていた時期でした。当時者でもあったので、色々思うところはありました。例えば、大学進学などで地元を離れている若者は、選挙に関心があったとしても、住民票のある地元に帰らないと投票できなかったので、当然投票率も下がるだろうと。どうして投票しやすくする等の工夫がないのかなと、漠然とした疑問がありました。当時の私にとっては、『選挙』を考えることが身近にあったんですよね」。

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歴史を追うと見えてくる「普通」の理由

 プロイセンは1848年、男性普通選挙の導入に踏み切った。納税額などに基づく制限選挙が主流だったこの時期に、保守的なプロイセンが何故、男性普通選挙という民主的な制度を導入したのだろうか?当時のプロイセンの実情を追うと「普通」選挙にこだわった理由が見えてくる。

 現在のドイツ・オーストリア地域に存在した神聖ローマ帝国は1806年、フランス革命とナポレオン戦争の波に飲み込まれて解体し、約40の国に分かれた。これらの国々はフランスに負けじと、国家主導で近代化改革を推し進めた。プロイセンもその一つ。しかし1848年3月、市民や農民、労働者の不満が爆発し、革命が起こった(三月革命)。革命は成功しなかったが、国王や貴族はもはや彼らを無視できなくなった。市民や農民、労働者の要求をある程度受け入れつつ、彼らを国家の側に取り込む必要が生じたのである。

そのためのツールが、普通選挙だった。

 「プロイセンは当時、自らがリーダーとなりドイツを統一しようと目論んでいました。この目標を達成するためには、自国を一層強く盤石にする必要があり、この国を支えこの国に尽くす気概をもつ民の創出が不可欠でした。三月革命を機に国王が1848年に制定した憲法では、男性普通選挙・平等検挙が採用されました。選挙権は、人々(特に男性)を国家の側に取り込み、強い国民国家をつくるためのツール、いわば『アメ』だったわけです。市民が王政を倒し選挙権の獲得・拡大を目指したフランスが『下からの近代化』を進めたのに対して、プロイセンは国家・官僚による『上からの近代化』の道を選びました。この方法は、近代化を急ぐ明治日本にとって良いお手本となりました」。

 ところがプロイセンは翌1849年、新しい選挙法を制定した。「三級選挙法」と呼ばれるように、従来の研究では、不平等選挙(=等級選挙)の側面ばかりがクローズアップされてきた。しかし的場教授は国王や貴族、市民、そして民主派の思惑がぶつかり合った制定過程を丁寧に解きほぐすことで、男性「普通」選挙が維持された理由とこの選挙法がすべての政治勢力の構想を一つに収斂した巧妙な法律だったことを明らかにした。選挙権を下層民にまで広く与える普通選挙を維持する一方、有産者に有利な不平等選挙を導入したプロイセン政府の目的は、普通選挙を掲げることで革命の機運が再び高まるのを抑えつつ、有産者の利益を代表する議員を確実に議会に送り込むことにあった。

有権者の実体解明。舞台は19世紀ドイツ・ザクセンへ

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 プロイセンの選挙制度を調べるうちに、ある疑問に突き当たった。「農民や労働者がいきなり選挙に駆り出されて大丈夫だったのだろうか?」「投票行動に移すための政治知識を彼らはどう得ていたのだろう?」。的場教授の研究のターゲットは、選挙制度から、徐々に選挙権をもつ人々そのものになっていった。地域も、プロイセンから、書籍出版業が盛んだったザクセンに移り、「プレス(出版)の自由」が研究テーマとなった。「プレスの自由」は日本の憲法には明記されていないが、ドイツでは19世紀以降各種の憲法で明記されるようになり、現在は基本法5条1項で保障されている。

 「研究テーマを変えたように思われますが、私のなかでは若者の選挙離れを考えた学生時代の問題意識とつながっているんです。選挙権などの政治参加権を行使する前提として、人々がどのように政治的な事柄にアクセスし、自分の政治的意見を形成するのか、という過程を見ることも重要なんじゃないかと。人々が政治参加を要求し始める19世紀において、この過程に最も重要な役割を果たしたのが新聞や雑誌といった『プレス』でした」。

 ザクセンは、プロイセンとオーストリアという二大強国に挟まれた国である。なかでも、大学都市として知られるライプツィヒは、同地に1409年に開学したライプツィヒ大学の需要のみならず、広く東欧地域の需要を満たす、書籍出版業の中心であった。1820年ごろにはドイツの書籍の3分の1がこの都市で印刷されたという。ライプツィヒはいまでも、書籍市が開かれる出版の街だ。

 「それまで出版といえば学術書や宗教書が中心でしたが、18世紀末には啓蒙思想や読書革命の影響で、娯楽や世俗的、時事的な話題を扱う書籍が増え、読者層が一気に広がりました。また書籍出版業の隆盛はザクセンの国家財政を潤していたこともあり、それを阻害しかねない検閲はこの国では緩やかに行われていました。そんなザクセンで近代以降、『プレスの自由』がどんな展開を遂げるのかを明らかにしたい、と考えたわけです」。

「プレスの自由」vs. 「プレスの濫用」

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 19世紀に入ると、国民の政治参加の基となる「公論」、そして「公論」形成に重要な役割を果たす「プレス」をめぐる自由が盛んに議論されるようになった。1815年、約40の国が集まり「ドイツ同盟」を発足させるが、その規約には「プレスの自由」の保障が謳われた。これを受け、各国は「プレスの自由」を含んだ憲法を制定するようになった。しかし、自由は右肩上がりで拡大していくわけではない。オーストリアとプロイセンは、「プレスの濫用」による治安の悪化を喧伝し、事前検閲(出版前に行う検閲)を各国に義務づける同盟法を制定するなど、とりわけ政治を扱うプレスへの統制を強めたからである。

 ザクセンもこの流れに飲み込まれていく。1836年、印刷前と出版前という2回の事前検閲が導入され、また、検閲を漏れなく行うために、内務省を頂点とする検閲体制が整備された。こうしてザクセンは「検閲優等生」国へと変貌したのである。もちろんこの転換がすんなりと受け入れられたわけではない。このあと、「プレスの自由」をめぐる攻防が議会を舞台に展開されることになる。

 三月革命が起こると、「プレスの自由」は息を吹き返す。この時期、ドイツ女性運動の先駆者として知られるルイーゼ・オットー=ペータース(1819~95年)は、ザクセンを拠点に『女性新聞』を発行し、その編集長を務めた。だが「プレスの自由」の春は長くは続かなかった。まもなく反動の時代が到来し、新たに制定されたプレス法では、保証金制度の導入や厳罰化などに加え、女性の編集禁止が定められた。ルイーゼは、この法律の成立を見越し、『女性新聞』の停刊を決意せざるを得なかった。

 的場教授は、19世紀ザクセンを舞台にしたプレスの自由の変遷を、法制度や政治思想、ジェンダーといった角度から丁寧に分析し、『プレスの自由と検閲・政治・ジェンダー 近代ドイツ・ザクセンにおける出版法制の展開』(大阪大学出版会)にまとめた(2022年5月に日本出版学会の奨励賞を受賞)。近代ドイツ史といえば、日本にも馴染みの深い大国プロイセンに関心が集中してしまう傾向があるが、それ以外の国や地域の視点から歴史を見直すことで新たな発見や見方が得られる。このように、的場教授の成果は地域史研究としても意義のあるものだった。

履歴書から見いだす現在地と未来。「排除」から「包摂」へ

 的場教授は法制史を「法の履歴書」を読み解く学問と定義する。ある制度や法律が「どんな紆余曲折を経て出来たかを知れば、現在の立ち位置が分かる。さらに将来も見通せる」と考えるからだ。

 例えば、ザクセンにおける「プレスの自由」に関する研究を通じて、的場教授は、民主政治・国民主権を支える「政治参加権」の変遷を、「包摂」と「排除」のキーワードで説明できると考える。

 「『国民』という名の下に国家・体制に包摂される人と、二流以下として排除される人とを分ける壁が作られ、選挙権やプレスの自由の享受もこの壁に拠っていました。しかし、歴史の流れのなかで、財産や性別、人種、宗教といった壁は徐々に取り払われてきました。私は、このパラダイムシフトが何故起こったのか、何故起こりえたのかを追いかけています。選挙権に関していえば、21世紀に入ってようやく在外日本人や成年被後見人に対する壁が除去されました。ですが、外国人の選挙権、つまり国籍をめぐる議論が続いています。今後、私たちがさまざまな選択を迫られたとき、それが『包摂』、『排除』のどちらに向かうのかを問うというのも、将来を考える際の指針のひとつだと考えます」。

 的場教授は、今後に向けての研究のキーワードも教えてくれた。「『後見』と『未成年/未成熟』という概念に着目したいと考えています。これらの概念は、年齢や判断能力という観点から理解されることが一般的ですが、かつては女性も、女性であるというだけで、夫や父の後見の下に置かれていました。一人前ではない『未成熟』な存在とみなされた女性は、さまざまな権利の主体となることを許されなかったのです。女性は、選挙権、編集権、集会・結社の自由などから排除され、政治にコミットすることを阻まれたのです。『後見』と『未成年/未成熟』という概念を手掛かりに、特定の集団が政治に参加することを阻んだ壁の実態をさらに明らかにしていきたいと考えています」。

歴史の分岐点に立つ私たち

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 歴史の流れのなかで、私たちはいまどのような場所に立っているのか、どこに壁を残し続けるのか、それを変えるメカニズムは何なのか、法制史は将来を展望する視点を与えてくれる。

 2度の世界大戦、冷戦、ベルリンの壁の崩壊…。対立と融和の歴史が形を変えながら繰り返されてきた世界ではいま、国家と国家、社会の階層と階層の間の分断が急スピードで深まりつつあるように見える。活版印刷技術の発明によって出版物が普及するようになると、それらは常に宗教や国家による統制と闘わなければならなかった。だがこのような統制は、決して過去のものではない。現代においても、手を変え、品を変え、より巧妙な形で、情報統制は行われうる。情報を統制し国民をコントロールする国がある一方、フェイクニュースで民主主義が揺らぐ国もある。しかし私たちの「知る権利」が担保されるためには、プレスの自由を含めた表現の自由は保障されねばならない。歴史の分岐点に立つ私たちが向かう先は「包摂」か「排除」か。冷静で的確な判断が求められる時代を、私たちは生きる。

 この社会を形成してきた法の履歴書から、汲み取れるものはきっと大きい。


的場教授にとって研究とは ?

「予定不調和」です。 恩師・三成教授から「あまりにきれいすぎる理論や現象は疑え」と教えられました。きれいなものには、理論に合わないところが捨象化されている危険がある。出てきたものすべてを、しっかり見なさい、と。確かに法学は秩序や体系を重んじますが、不調和は決して厄介な存在ではありません。そこには、新たな気付きや何か本質的な問題が隠されているかもしれませんから。

【プロフィール】

的場かおり MATOBA Kaori

大阪大学高等共創研究院(兼任)法学研究科 教授

1998年大阪大学法学部卒業。2002年-03年ベルリン自由大学留学。04年大阪大学大学院法学研究科博士後期課程修了。桃山学院大学法学部准教授、近畿大学法学部教授などを経て、21年から現職。法学博士(大阪大学)。

22年5月 『プレスの自由と検閲・政治・ジェンダー 近代ドイツ・ザクセンにおける出版法制の展開』(大阪大学出版会)で第43回日本出版学会賞奨励賞受賞。

高等共創研究院 について
 高等共創研究院は、大阪大学がその中長期的な経営ビジョンとして掲げている「OUマスタープラン」における研究実施基盤として、自由な発想が芽吹く環境での研究者の知的好奇心に基づく多様な基礎研究の実施という考えのもと、高度な研究マネジメント能力と高い倫理観を持ち、世界最高水準の学術研究を推進する国際的に卓越した若手研究者を雇用・育成するために平成28年12月に設置された全学組織です。
 産業界や各種団体などからの寄附金等を活用して優れた若手教員を特命教員として雇用し、兼任部局の研究環境支援のもと、世界最先端の研究ならびに共同研究推進のフラッグシップとなる研究を推進し、Industry on Campus の発展に貢献しています。

(2022年5月取材)